フィールドワークとカメラ

2017年11月12日 11:14 下道 基行 */?>


ーカメラとスコップー

 僕は旅をしながら写真を撮影して作品を作っている。ただ、文章も書くし、物も集めて展示もする。写真家と美術家の間というよりは、いろいろな境界線の上から別々の価値観のものを繋ぐことを制作としているように思う。
 大学では油絵科に在籍していたので、現代美術というのに触れる機会は多かったが、卒業後に絵筆からカメラに制作する道具を持ち替えた。カメラは独学だった。撮りはじめて2年ほどたった頃、写真の学校に通ってみた事はあった。そこで出会った若き写真家たちには、デジタルの波が押し寄せ、“写真”という存在が激しく揺らいでいる時期でもあったので、何を写すか以上に、カメラ/写真という道具をどう扱うか、ということに関心が集中しているように感じた。ただ僕はと言うと、ストレートに“記録として”カメラを選択したばかりだったこともあり、自分だけが何か時代遅れの場所からやってきたような、場違いな所で居心地の悪さを感じた。
 幼い頃、瀬戸内の小さな海沿いの町に住んでいた。考古学者になりたくて近所の貝塚にスコップを手に穴を掘りに行ったことや、隣の空き地にでっかい大きな穴を友人と掘ったこともある。スコップで地面をザクザク掘ると色々な時代の地層や思いもよらない物とぶつかる。カメラを手に旅をして風景写真を撮影するようになって以来、僕にとってカメラはスコップに近い道具なのかもしれないと徐々に感じるようになった。目の前の風景には時折様々な人々の生活の蓄積が地層のように見える事があり、そこのある時代だけを視覚化するにはカメラは良い道具かもしれない。視覚化するには、ただ写真を撮るだけではなく、集めて選んで並べる必要がある。一枚の美しい写真を撮影することが大切に思われがちかも知れないが、「撮って集めて選んで並べる」この行程がとても重要だと思う。
 現在僕は、デジタルとフィルムの3種類のカメラを使っている。6×7、4×5、デジタル一眼レフ。これは全くの我流だし、今まで人に話した事すらなかった。ただ今回「フィールドワークとカメラ」というお題が与えられて考えてみると、色々な作品シリーズを作る度にカメラの種類を毎回変えてきていた。改めて作品を順に追いながらカメラと旅と表現について自分なりに書いてみようと思う。

・ シリーズ『戦争のかたち』(2001-2005年)
 ある日、東京郊外で戦争の廃墟を見つけた。それが数ヶ月後に壊されて駐車場になっていた。シリーズ『戦争のかたち』は、日本全国に残された、砲台/掩体壕(飛行機の格納庫)/トーチカなどが様々な場所で新しい機能として使われていたり、今の風景に混ざっている様子を撮影したシリーズ。雑誌『Spectator』での連載後、リトルモアより写真集になった 。
※写真1(キャプション)トーチカ/北海道 シリーズ『戦争のかたち』より
 僕はこのシリーズの為にはじめてカメラを購入した。写真をやっている友人に建築物を中心にした「風景写真」を撮りたいと相談すると、価格とクオリティと機動力を考え、【中判カメラ】Pentax67を勧めてくれた。このカメラは、フィルムが35mmカメラよりも大きいサイズで写真の粒子が細かく引き延ばしても美しい。Pentax67は中古品がかなり多く出回っていて安価だ。デジカメはCCDが本体に内蔵されているのに比べ、フィルムカメラはどんなに古いカメラでもフィルムさえ新しい物を入れれば、更新されて行くのは良い。
 中判カメラとフィルムをリュックに入れて日本中を巡った。道なき道を彷徨うこともあるので自動車では機動力が悪くバイクが適していた。写真もバイクも風景とコンタクトする為のメディア。その頃、別の仕事をしていたので、1年に2回2週間くらいの休みをもらい、取材旅行を重ね、このシリーズは2005年に完成した。
 フィルムは、ネガとポジ、そしてカラーと白黒などいろいろなもので実験してみた。ドイツ写真の大御所ベッヒャー夫婦の給水塔の写真への憧れもあり、白黒のフィルムやタイポロジーも挑戦してみた。ただ違和感を覚えた。白黒写真とコンクリートの建造物の相性はとても良く、建物の機能美をよりシャープに切り取るのに効果的だった。ただ、“今の日常風景の中に突然ニョキッと現れる軍事的遺構が見えてくる風景”や“戦争の為に作られた超機能的な建物が機能を失い、新しい機能を与えられて残された建造物への興味”をより拾い集め並べる為に、白黒ではなく、徐々にカラーのネガフィルムで撮影し暗室で焼く方法になっていった。暗室作業は絵画をアトリエで描く作業に近く、自分の見た風景ともう一度出会い直す、大変に特別な経験で、これがなければ写真にハマらなかっただろう。今だと貸カラー暗室もフィルムも減少しているしデジタルでもしっかり撮れるから別の表現になったかもしれない。記録の道具の感覚や表現は日々変化している。
 白黒写真は「いつの時代かわからない」時間の止め方をする。それは、色が欠如している分、人々それぞれに想像する余地が多く残されているからかもしれない。使い方によっては記憶色にもなる。カラー写真はより情報量が多く説明的とも言えるかもしれないが、僕は当たり前な感じの日常のごちゃごちゃした雰囲気が気に入っている。
※写真2(キャプション)掩体壕/宮崎県 シリーズ『戦争のかたち』より

・ シリーズ『torii』(2006-2012年)
 シリーズ『torii』は日本国内の遺構を巡ったシリーズ『戦争のかたち』の旅の延長線上で“日本国外”に残された日本植民地時代の建物を見に行ったりして、日本の外側に残された建造物を調べ始めたことに始まった。実は、『戦争のかたち』を写真展にした時、写真に“ユルさ”を感じた。それはレンズや撮影方法やプリントの問題だった。『torii』ではより硬質で均一な写真を作り、大きく引き延ばした展示や自分が好きな写真集らしい写真集を最終イメージとして目標を定め、【大判カメラ】を購入することにした。このカメラは箱状で蛇腹が付いていて、カメラの後ろから暗幕を被ってのぞいて写すようなカメラ。特徴は、フィルムが中判カメラよりもさらに大きく、粒子の細かい美しいプリントが仕上がること。そしてあおり機能で建物の水平垂直で撮影できること。あと、カメラ自体が非常に大きく機動力がない(手持ちは非常に難しい)ので、自然とゆっくり風景と向き合って撮影することになる。撮影の行程は、まずはカメラを組み立て、三脚を立てて、暗幕を被り、構図を見て、ピントを合わせ、フィルムを入れて、風景を見つめ、待ち、シャッターを切る。カメラの大きさや機動性は仕上がる写真の印象とも非常に関係があるといえる。手持ちのカメラや小さいカメラでは、写真もラフに写りやすいが、この大判カメラは、三脚に乗せて写し描写力もあるため、写真もカチッと硬めの印象になる。それは、レンズや水平垂直などの理由もあるが、カメラが写す人の気持ちを反映する道具であることも関係している。感動しながら写された写真からはその感動が伝わってくることもあるし、大きなカメラで風景の美しさや時間の体積を感じながら、ゆっくりとシャターを切る感覚も写真には写るものだと思う。
※写真3(キャプション)サハリン ロシア シリーズ『torii』より

・ シリーズ『日曜画家』(2006-2010年)
 シリーズ『torii』と同時進行で進めていたシリーズ『日曜画家』。国内の、特に関西近辺に散らばっている祖父の絵を探し、その飾られている風景を撮影した、とても私的なシリーズ。このシリーズは、当初『torii』と同じ【大判カメラ】で撮影を始め、途中で【中判カメラ】に変更した。写真4と5を見て比べると何かが分かるかもしれない。写真4は大判カメラで撮影した初期作品、写真5は中判カメラで撮影した後期の作品。
※ 写真4(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
※写真5(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
 シリーズ『日曜画家』は、祖父の記憶を探す事とともに、風景絵画をカメラでリフレーミングし入れ子状の風景写真にすることをコンセプトにしていた。写真4は『torii』の鳥居と同様に、“主人公”である祖父の絵画を中心に置き、引きの構図で硬質に空間を捉えようとしているが、この手法だとなんだか面白みに欠けるなぁと徐々に思うようになり、中判カメラに持ち替えた。硬質な写真からラフで柔らかい画面づくりへシフトダウンさせた感じ。ただ、Pentax67よりもより軽量で手持ちの撮影のしやすい中判カメラMamiya7Ⅱを購入。中判のカメラは非常にボケ感が美しいという効果があるが、手持ちで撮影するのと、写真の “硬さ”も変わってくる。これは僕の個人的な思い込みかもしれないが、思い込みも写真は吸い込むようにして画面に定着してしまう。
 そう考えると、フィルムカメラでもデジタルカメラでもどちらでも良い。ダサい服装だと気持ちが乗らないように、自分がかっこいいと思うカメラであることも重要かもしれない。そして、フィルムカメラを旅に持って行くと、常にフィルムの残り枚数や本数を考えておかないといけないし写したイメージも見られないのデメリットは大きいが、一枚一枚への「気持ち(緊張感)」は自然と増して行くメリットもある。だから、最近でも納期のないふらりとした旅などはフィルムカメラを持って行く。撮った写真は撮影してから1年後近く放置してから暗室で焼いてみて、作品が動き始めた事もある。フィルムはそういった小さなタイムカプセルのような体験ができる。

・ シリーズ『bridge』(2011)
 このシリーズ『bridge』は2011年3月11日の震災の数日後、あぜ道に架けられた木の切れ端が橋のようになっているのを見て、「美しいなぁ!」と思い、【デジカメ】で写したのがはじまり。小さいけど感動が乗って写真をシャッター切るとき“手応え”がある。やはり撮れた写真にも強さがあった。そう考えると、カメラマンとしてプロの方々は被写体に対して「褒め上手」な人が多いなぁと思う事がある。つまりはじめに感動がない状態で、色々な被写体に写真で向かっていける。
 このような “橋のようなもの”はいつもでどこでも見てきた気がする。でも、震災の直後だったからこのモチーフと出会ったのだと思う。たぶん、いつも近くにあった日常や人々がいつか消えてしまうという当たり前のことに急に気がつき愛おしく感じられるような体験をその頃多くの人にあったのだと思う。そしてその気持ちは再び徐々に薄れていく。
※写真6(キャプション)シリーズ『bridge』より
 これらを撮影した時、今和次郎さんが関東大震災直後にみつけた廃材で建てられたバラックのスケッチと勝手に接続した。そして、その時、この橋みたいなものなら、被災地にもでき始めているのではないか?と想像してみた。
“不在であったり欠落してるから生まれてくる人間の営みや創造”。これは自分の中で選んでいるモチーフに共通する物かもしれない。つまりマイナスとプラスがぶつかっている場所でもある。マイナスだけでもプラスだけでもない。
 僕はすぐにホンダのハンターカブというオフロードも走れる中古カブを買って、日本全国をこのどこにでもある橋をさがして旅にでた。港街で船にかけられた小さな板切れの橋や田園風景の中の橋、そして津波の被害のあった町も巡った。
※ 写真7(キャプション)シリーズ『bridge』より
 写真でシリーズを作る方法というのは様々あると思うが、僕の場合は「主人公」を見つけること、そしてその対象へのカメラの選び方と向け方にある。『torii』はカメラを基本的に水平にしすべてにピントが合うようにして、建築物を撮影するベーシックな撮影方法を取っているが、前に書いた通り『日曜画家』ではそのルールを途中から破り、手持ちでよりボケ感を使って水平などを意識せずスナップのように撮影している。そして『bridge』はというと、僕が立ったままの位置からカメラを構え、足下にそれが落ちているように見下ろす形でフレーミングしている。地平線は入れないようにし、主人公と周囲の関係性は少し入れている。カメラの向きを上げて地平線を入れると、「これって京都だね」とかその土地の個性がでてしまうので、逆に「どこにでもある」感じを出したいと考えてこのようなフレーミングをした。被災地でこのような橋を見つけて撮影して展示しても、テーマ的にそこが被災地である事は分かる必要はないと想像もした。
 シリーズ『bridge』では、2011年8月からの展示開催中も僕はどこかを旅をしながら、色々な場所から展示場所に“橋のようなもの”の風景写真をデータで送り続け、展示会場ではスタッフがそれをプリントアウトし、壁に一列に貼って行った。
※写真8(キャプション)シリーズ『bridge』展示風景より(photo by Ken Kato)
 その旅の途中、山口県の周防大島の、宮本常一さんの資料が集められた周防大島文化センターに行った。ここには宮本さんが撮影したものすごい量の写真がファイリングされていて、お願いすると見せて頂けるのだが、これが非常に素敵な経験だった。愛用のカメラはオリンパスペンという【ハーフサイズ】のカメラ。ハーフサイズというのは、35mmのフィルムをカメラ内で縦割りに半分にして撮影するので、36枚撮りだと72枚撮影できるというもので、画像は粗いが、独特の風合いがあり、小型でとにかくサクサク撮れる機動力がある。今だと携帯のデジカメくらいの感覚で撮れる。宮本さんがそのカメラを手に、車や電車の移動中にもいつもシャッターを切っている様子がファイルから見えてくる。写真自体は構図が美しいとかではなく、眼に飛び込んで来るものをヒョイヒョイとつり上げるようなまなざしが映り込んでいて、実に軽快だ。メモ書きよりも軽く、でも記憶にひっかける釣り針のような。ただ、何気なく写された風景の背後も透けて見える。土地や歴史への読み込みと、時間軸の深い尺度を持っているように感じる。そして人々の生活や時間への朗らかでまっすぐな感動が伝わってくる。


ー記録と表現のバランス感覚ー

 ここまで、僕自身の作品と共に、「撮って集めて選んで並べる」の「撮って集める」部分を書いた。最後に、「選んで並べる」部分について書く。
 集めてきた写真を選んで並べることで、それによって見る人にダイレクトにも細やかにも発見や感動が伝播する可能性を生み出す事ができる。例えば、1枚の写真だけでは、その写真のどこに興味のフォーカスが合っているかすら見えてこず、見る人は「何を写した写真なのだろう?」と考えるかもしれない。その後に2枚目を並べ3枚目を並べることで、徐々に撮影者の“まなざし”が見えてくるかもしれない。ただ逆に、1枚の写真を小さなサイズでぽつんと展示するだけだと、見る人が様々な想像をできるかもしれない。沢山並べると説明的になりすぎるかもしれない。いろいろな写真があるが、写真を表現にする場合にサイズとサイズというのは重要だ。
 写真はデジタル化しようが基本的に記録メディアだ。僕は、目の前のモノを「記録」する重要性/面白さを感じていて、それと同時に編集し自分自身の「表現」にする重要性/面白さを感じている。バランス感覚が表現者それぞれにあるように思う。
 僕は元々絵を描いていたので、今和次郎さんのように写真ではなくスケッチで記録しても良いのではないかと考えることもあるが、やはり写真を使う事が多い。それは自分がフォーカスした物だけではなく、気がつかなかったものなどが入り込む余地がある事に豊かさを感じるからかもしれない。

(建築雑誌 2014年12月号掲載)