ぐうたら
自分ももうすぐ40歳になるのに、ひとり南の島の安宿の布団に寝転がり、深夜テレビをつけてごろりとしてる。テレビの向こう側では、たまたま大阪西成の知人の活動がドキュメンタリーとして放送されていて、土地に何年も根を張り続けてきた活動に敬意を感じ見入ってしまう。
こちらは、根無し草の生活が続いているのだ。この10年間、1週間なんてサイクルもほぼ存在しない。数週間、何もないとかもざらだ。幼い頃から学校教育とかでたっぷりと仕込まれた”日本人の大人として社会人としての生き方”を、逸脱し続けることは容易ではない、不安がないと言うとウソになる。でもそのストレスを吹き飛ばす幸せを感じることもたまにあるし、なんとか生きている。この自分でも想像もしなかった実験のような生き方をもう少し続けていこうと思っている。
”私は思う。人間は本来怠け者、横着者なのだ。だいいち文明というのは、物質的な豊かさのためでもあるが、ひとつは楽をしようとして進歩してきたのではないだろうか。必要は発明の母というが、怠惰は発明の父といってもいいのではないか。 私たちの社会では、楽をしたいために、先人が頭をふりしぼって努力してきた。それなのに手段であったはずの労働だけがいつのまにか目的となり、それが美徳になってしまった。
『ぐうたら原始行』関野吉晴/1974年”
今回の旅に持って来た本にはそんなことが書いてあった。
そう言えば、小学生の頃に文集に書いた「夢」の事を思い出す。夢は8個書いてあって、その中に「ふつうのかていでよい」というのがあった。「普通の家庭で良い」。普通とはなんだろうか、今でもふと考える。
”私たちの社会では、楽をしたいために、” 先人たちは、常識的な生活を生み出し、なるべく考えなくても悩まなくてもいい生活や慣習を作り上げて来た。そういう”普通”というのは強固だ。でも、その叩き込まれた”普通”に疑問を持ち考えて実行し続けていく先に、自分にとっての本当の”普通”がある。
のかな?笑