褒められるとのびるタイプです
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さて、
新聞記事とは関係ないが、気になる事を少々。
最近、私設図書館が増えている。
《瀬戸内「」資料館》も個人ディレクションの図書館であるといえばそうなので、違いを考えてみたい。
個人が○○図書館を作る場合、その多くは”自らの蔵書”を元に図書館を作る。
つまり、「この本、面白いよ」とか「この本は貴重なので共有したい」がベースにあるのかもしれないが、これでは”図書館”としては少々自分勝手ではないか…。多分、個人で”図書館”を作る深層心理としては、蔵書の共有だけではなく、もうひとつ、パブリックスペースのような”人々の集う場”を作りたい!という希望があるのではないか。読み聞かせのために子供達が集まったり、サークル活動やトークイベントや勉強会など、そういう文化的な施設としての”図書館”。
本を並べて”図書館”と名付ける事で、人々が繋がる”場”を作りたいのかもしれない。”図書館”というのは様々な機能やイメージを持っている。
少し話はずれるが”自らの蔵書”でいうと、最近、美術作品展にも、本や資料の展示が併設される展示を見ることがあるが、それは「私はこの本を読んでこの作品を作りました」という趣旨のものが多い。その場合、その作家のファンであれば楽しいが、展示を体験しにきた人には蛇足であることも多いのではないか。
では、《瀬戸内「」資料館》の場合だが、
まずは、資料館の本棚に、僕の蔵書は一切入れないようにしている。
アーカイブしようとしている「瀬戸内の風景や歴史が記録された書籍など」をゼロから探して収集している。
なぜなら、これまで瀬戸内にそこまで興味を持ったことがなかったのもあるが、
僕の好きとか嫌いとかを抜きにして集める事が重要であるし。できる限り網羅するために本を探すのを日課にしている。
ただ、収集するジャンルなどアーカイブの背骨の部分は僕が決定し、特色があると思うが、”自らの蔵書”をこの図書館のベースにしようとは考えたことがない。”自らの蔵書”は僕の中に咀嚼され入っていて、それが別の形になって出ていれば良い。場を作ろうとは思っているが、それ以上に記録物の「収蔵庫」「アーカイブ」をタイムカプセルとして作りたいと考えている。
なんか、”自らの蔵書”を見せる展示や手法が気になったので書いてみました。
こういう色々な別のジャンルの近い事例と自分のプロジェクトの違いを意識化しながら、少しづつ独自のあり方を探るので、他人の批判ではないです。。