写真家と芸術家
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写真家とは、他の芸術家とは異なり、固定した自意識を展開、展示してゆく事では 無く、自ら造り上げた自意識を基点として出発するのであるが、逆に、自意識と異なる人々、事事を自ら発見した、その瞬間から撮影を開始するのである。
(中平卓馬 1993年7月号「芸術新潮」)
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芸術家は、ある意味で「固定した自意識を展開、展示してゆく」人たちである。
(さらに蛇足を付け加えると、”売れる芸術家”は、「社会的コンテクストを考え、メディア/メディウムへの配慮を行い、気の利いたタイトルをつけて、美術史や哲学史などの引用を上手に行い歴史との接続も忘れずに、固定した自意識をもしっかり見せれる」人たち、それが自分の仕事であると理解し行動できる人たちである。)
それはさておき、
ここで、中平が語っている写真家というのは、今では”古風な”写真家スタイルではある。ただ、この職業の流れの中に自分はいると読んで感じたのでここに貼り付けた。
(「写真」という言葉自体の意味に付いての言及はここではしないで話を進める。)
写真家の歴史は、写真とアートとの接続の歴史であり、写真を扱う芸術家である写真家は、やはり「固定した自意識を展開、展示してゆく」人である。写真家が「写真というメディア自体を考える研究者」である側面は共通しているが。中平が語っている写真家というのは、写真家が持っていた「観察者」であるというプロ意識かもしれない。それはスマホやSNSによって、全員が「観察者」であり「表現者」になったのかもしれないが、今でも写真家は”映え”や”いいね”とは関係のない世界の「観察者」として自分の仕事を理解し行動できる人たちであると僕は考えている。ただ、これは今では”古風な”写真家スタイルではある、かもしれない。かつてはより、そういう側面を持っていた、と言える。ここでいう写真家というのは、カメラや写真を眺めて美術史やメディアと向き合うこと以上に、カメラを通して他者と向き合う人を指しているということ。
芸術家はすぐに地面の上に自分の自意識を創造する、のが当たり前だけど、そこに違和感や劣等感を抱えてきた僕自身が大切に思っていることは、写真家が自分の足元をカメラをスコップにして、もしくはソナーにして、目の前の風景から新しい何かを発掘するような感覚と作業と表現なのだと思う。しかし、これはスタンダードなアーティストのスタイルではないのだろう。求められる「表現者」像は「創造者」であり、「観察者」ではない、そう常に感じてきた。
僕自身、これを今日、書いているのは、別に中平さんを利用して自分が写真史や美術史に接続したいからでもないし、写真家と芸術家の比較の大発見をしたいからでもなく、ただ、足元すら見えない暗闇の道を歩いている時に、かつて先人の置いた消えそうな明かりを見つけたように感じがして、書いてみただけだ。
この文字も土に埋めておく気持ちで。
未来のプロの「観察者」が発掘するかもしれないので。