『下道本欲しいぞ文学賞』から学んだこと

2021年6月27日 18:04 下道 基行 */?>

『下道本欲しいぞ文学賞』の内容は、前回の日記で書いた。
これによって、毎日5人くらいから、今回の展示の感想が届いている。普段は聞けないような、今回の展示のリアルな感想、下道作品に対する感想などを、知らない人々から聞くことができたのは面白い。これはtwitterならではだった。(エゴサしてSNSの書き込みを見てみても、気の抜けたコメントや、逆に本人が見ることを意識した営業トークや、本人が見ることを意識した悪口などなど、為にならない書き込みが「ほとんど」であまり見ないのだけど、つい見てしまうと後悔してしまうことが多かったのでtwitterは辞めて気持ちが楽になったが、今回ははじめて有効に使えた気がする。)
ネット以前、展示を開催したり、本を出版しても、読んでくれた人の感想などはほぼ届いてこないものだし、ほとんど諦めていたのに、ネット以降は、誰かが書いたどうでもいい感想をみたくて仕方ない。ネット以前、人々の評価を知れるとしたら、売れ行きが良いか悪いかだった。でも商品ではなく作品の場合、売れる作品と良い作品はイコールではない。特に展覧会の場合、売れ行きなどでそこまで反応を見れるわけでもないので、何も反応を受けないまま、自分なりに反省や満足感を得ながら次へ進むことが多い。なのに、エゴサをしてしまうと、どうでもいい悪口一つに落ちこまされる。

そういう意味では、今回の『下道本欲しいぞ文学賞』は、ネット以前でもない、SNSでもない、ただ、ネット以降でないと体験できない、”聞こえてこない声を集められる機会”になった。さらに、エゴサはほぼ無意味なのも分かった。

漂着瓶が職人の手によって沖縄ガラスの作品になる。何気なく寄った浜辺から石を拾い上げ、ただ転がっている意味を持たない石から人の語りを聞く。日々の断片から痕跡を見つけ、収集し、調査していく社会学に似たかたちを感じました。ただ、社会学と違い、分析するのではなく、集めた素材の順序、文体やスタイルを、下道さんはデザインを自らし、編集していく、その力が美術としての作品になっているんだなと。今まで見てきたアート作品とは違っていて、作品の作り方にこういった技術があることが新鮮でした。


上の文章はメールで送られてきた展示の感想の一部。
(とてもいい文章だったので少しコピペさせてもらいます。。すみません。。)
これ以外にも、感想のメールの多くは現代美術の関係者ではなく、建築や社会学など美術とは別ジャンルだけど、風景と人々を深く観察するジャンルの人々からが多かったのが特徴だった。
そうか。つまり、僕の作品は現代美術の関係者ではない人々に届いている。
いや、もう少し詳しく書くと、普段僕自身が、”A面”と呼んでいる「戦争のかたち」「torii」「津波石」という作品のラインは、美術関係者からの反応はなくはないが、"B面"と呼んでいる「14歳」「沖縄硝子」などはほぼ反応がないのはなぜだろう?作品として小粒だからかなぁ?などと考えていたが、どうやらそうではないのかもしれない。別の場所に届いていたのかも。

学問の世界ではアウトプットは文章であり論文である。競い合う舞台は展覧会ではなく学会やジャンル内の書籍や発表会なのだろう。
ただ、人類学の川瀬さんのようにフィールドワークを動画で記録し、それ自体が論文であり映像作品であることを目指しているように。論文と表現の間の存在、文章ではない論文、いや論文とは別の形の調査の出口を探す研究者は現代たくさんいる。
多分、そういう人々に僕の作品は届いているし、新鮮に映っているのかもしれない。
そうか。
最近、「美大で学生たちがフィールドワークをしながら作品を作るので、教えてほしい」と特別講師として呼ばれるが、その授業の生徒の中には「もうフィールドワークでネタは手に入ったので早く絵を描かせてください、作品作らせてください」みたいな空気があって、がっかりしたことがあった。今回気が付いたのは、美大ではなく「普通大でフィールドワークをしながら論文を書くのですが、もっと色々な人に届くアウトプットの可能性を教えてほしい」という方向の方が僕にあっているのではないか?と。(誰が読んでくれませんか?笑)

僕の作品は、調べたことを文章化せず、様々な情報を圧縮して表現としてまとめる。そこには、フィクションがそこまで介在しない。フィクションがあるとすぐに表現/作品になるし、その作家の創造物になる。例えば、ゴミを素材にオブジェを作った瞬間にそれは”アート”になるように。誰でも簡単に表現者になれる。そこに素材やオブジェに対して深い思考はなくても、instagramやSNSを発表の場所にして、完全に表現者になれる。
僕自身、調べたことネタにしてすぐにフィクション化/オブジェ化してしまう自称”アート”だけでなく現代美術作品への嫌悪がどこかにあるのだと思う。

日々の断片から痕跡を見つけ、収集し、調査していく社会学に似たかたちを感じました。ただ、社会学と違い、分析するのではなく、集めた素材の順序、文体やスタイルを、下道さんはデザインを自らし、編集していく、その力が美術としての作品になっているんだな

その通りなのだと思う。
僕がこういう手法になったのは、偶然。美大を卒業して、旅をしながら雑誌に写真と文章を連載するスタイルからスタートし、雑誌連載から書籍を作るスタイルを目指したが、デビュー作「戦争のかたち」以降、それは叶わなかった。持ち込みをし続けたがすでに雑誌の連載にはスター文化人が並び入る隙間がなく、そのうち雑誌自体も衰退し廃刊していった。フィルムカメラも劇的にデジタルに変わっていた。つまり、頼れるメディアや舞台がない中で、専門家になれず、自分で発表するスタイルを作る必要に迫られてきたに過ぎない。いや、もちろん、美術の作品の中に興奮するほど面白いものは存在する。でも、それは美術に限ったことではない。

最後に、
『下道本欲しいぞ文学賞』は文学賞なので、実は送られてきた感想はフィクションだったのかもしれない。でも、それによってこの一週間は”褒めの布団”でぐっすりいい気分だったのは事実なので。それはどちらでも成功であったのかもしれない。
多くの感想ありがとうございました。明後日から発送作業します。