写真ワークショップ
写真のワークショップをした。のは初めてだ。
参加者は5歳から10歳。となかなか若め。
今日はその一日目。
僕自身、写真家で(も)ありながら写真を写すことに自信がない(特に人物は無理)。写真を教えられる/教えたいと全然思っていない。そんなこともあって、写真家だから写真ワークショップをこれまでに何度か求められることもあったがしてこなかった。ただ、そういう中で、写真”的体験”をカメラなしで行うワークショップとして『見えない風景』というのをこれまで2010年から継続的にやってきていて、僕のカメラ感覚の共有体験としてのワークショップはこれ以上はないっと思っているのもやらない理由だったりしたが。ただ、今回は幼い子供が対象ということもあり、『見えない風景』ではなく、”普通の”写真ワークショップに踏み切って見たのは時間の流れがあったのかも。それは、彼らがスマホやデジタルカメラにネイティブだから。つまり、僕が手にしている(た)カメラと彼らが感じているカメラは似て非なるものになった。彼らと僕の持つカメラ感覚や意味の違いの部分をうまく抽出できたら、それは僕のワークショップ(写真を教えるのではないワークショップ)になるのではないか。ま、そういう期待。彼らと一緒に、フィルムカメラ(27枚どりインスタントカメラ)を使うことで、日常が”自分だけのものであること”や”有限であること”を強く感じる体験になるのではないか、さらに写真というメディアが映えるイメージを作るものではなく、過去と未来をつなぐ存在であることをより感じられるのではないかと期待して、(インスタントカメラを使った普通に日常を撮るワークショップという誰でも考えるしできることを)やってみることにした。写してもすぐに画像が見れない時間差、そして、他愛もないある日常のスナップを写真集にして保管し未来に開封される(だろう)タイムカプセル感(これに子供達は気がつかないだろうが、いつか。)。 テーマはシンプルに「自分だけの風景をとる」「近い人を毎日撮影する」「フィルムカメラで1日4枚1週間」だ。わかりやすいのが一番。これも新しい挑戦。
アイデアのベースには、『ようこそ先輩』の荒木経惟「イイ顔を撮ろう」(2002年1月27日)の記憶があった。その影響が今更結実した感がある。2002年といえば、ようやくデジカメが普及し始めた頃、200万画素の時代(現在は2000-3000万画素)。荒木の授業は母を撮るような内容で、「メメントモリ」が根底にあったように思う。人物写真などを決して撮らない僕としても、今更だからこそ、ようやく子供とフィルムカメラで何か特別な時間を作れる気がしたのかも。
開催場所はキッズポートという児童館的な子供のための島の新しい場。参加者が幼いこともあるし、工作が得意な子が集まるので、まずは内容を説明した後、インスタントカメラに愛着をもつために、ポスカで色を塗ったり絵を描いたりしてみることに。すると、見に来ていたお母さんがたから「この感覚懐かしい!」と声が上がる。確かに、高校生とかの頃、プリクラとともにインスタントカメラを自分で色付けして持ち歩く友達いたかも(さらにプリントした写真は無印のクリアアルバムに入れたっけ。)。意図せず、この世代を超えた妙な一体感を得ること。。
さて、意気揚々とカメラを手にそれぞれの日常へ帰って行った子供たち。何を捕まえてくるのでしょうか。
みるのが楽しみ。
ひとつ小言を書いておくと、参加者が顔の知っている移住組ばかりだったことは少し気になったかな。
基本的に、島の移住組は教育や文化的な意識の高い人たちではあるが、チラシは小学校全校生徒にばら撒かれたはずだから、何人かはじめての子がいても良いのに。。
なぜでしょうか? 島では文化イベントに無料で慣れてしまっているから? カメラや現像などの費用もあるので2000円(実際は3500円くらいかかるから安いのだが)がハードルになった? もし無料に慣れているのであれば、それも結構問題じゃない? 1日数時間のワークショップではなく、毎日写真を撮り計2回もあるのが面倒?
しかし、都市の美術館でワークショップをしても常連さんばかりだったりするし、原因はそれだけでもないだろう。
でも、僕の作るワークショップは時間もかかるし、絵や工作が上手いとか興味があるとかそういう人ではない人にも響く内容を考えているので、なんというか残念ではある。やはり『14歳と世界と境』(は『ようこそ先輩』を一つのモデルにしているが)のように、学校のクラスにお邪魔して生徒全員とかにやらないと、本当の意味がないと思ったりする。が、これは根が深い難しい問題だ。
小言が多いっすね。おやすなさい〜。